ひとつ前の投稿『ai』に書いたことを、
もう少しくだけた文体で改めて書いています
全く言葉を喋ることができない書くことができなかった私の
なんとか自分なりの方法で言葉を身につけてゆく過程がうかがえます

数年前に書いた、ある気づき
気づきというか、「ずっと自分の中にあった感覚について言語化できた」とき
「自分が消えたようになる、透明になるってどういうこと」ということ
今日、ふと読み返していて、今の自分を解放へと導いてくれる
それはすでに自分の中にあったのだと思い出せました
ありがとう、過去の自分
ひとつ前の投稿『ai』も併せてお読みください

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からだの中を通りぬけてゆく(2020.03.26)

わたしはとても暑さが苦手でした
体力的にもバテやすく、そうですが
日に当たるとアレルギーで腫れてしまうこともあり
積極的な気持ちで暑い気候を過ごすことはありませんでした

しかし数年前に、真夏の京都奈良を巡ったとき、
暑さへの向き合い方が少し変わってきました

お寺や神社への、日陰のない道を延々と歩いたり、
フライパンの上にいるような暑さの中でバスを30分待ったり、
どうにも逃げようがなかったのです

その時わたしは、ある心境に至りました
暑さを肌の表面で受け止めると「暑い」と思う、
でも、暑さが自分のからだを通りぬけてゆくようなイメージをしたら
暑さがからだにとどまることはなく、「暑い」という感覚も感情も湧かなくなりました

その頃わたしは「自分がなくなるような感覚」について考え続けていました
創作をしている時にふと、アイデアが降りてくるようなとき、
宇宙に存在する、自分以外のすべてのものに
感謝するような敬うような
とても眩しい気持ちになるのです
そのとき自分は透明になって消えているようになります
そして考え抜いたすえに、その眩しさは「愛」なのかもしれないと至りました
自分以外のすべてのものへの、感謝するような敬うような気持ち

暑さについて考えている時にそのことを思い出しました
自分が消えて暑さが通りぬけてゆくような感覚、
これは「暑さを愛する」ということなのかな
と気づきました

おそれたり、憎んだり、怒ったり、
そうするとからだの中で苦痛を呼び覚ますのではないだろうか
今こそその怖いものを愛し、「からだの中を通りぬけてゆく」ようにすることが
必要なのかもしれないと、ウィルスのことも、他の直面しているストレスフルな案件についても、思うのです

フライパンのような暑さの中でバスを待っている時に
風が吹き、田んぼの稲が波を打つ景色を見て、
わたしは心の中で涼が生まれました
実際は熱風だったのかもしれないけれど
それはとても涼やかな気持ちを湧き起こしてくれました

何が必要でも、なく ただ、身一つで今、できる

きっと誰の中にでもあるはずのその感覚を思い出し、呼び覚ますことは、できるのだと思うのです