まだ言葉にできる事象は大したことではない。言葉にできないよくわからない自分にとって圧倒的な衝撃が今どかんとキテいる。現実的なことはまだ何が起こっているかわかるのでなんとかなる。でもそれは言葉にならないから誰にも言えない。秘密なわけではなく自分でもなんなのかわからない。それがずっと私の核心を占めている。
私は死んだように生きていた、というか“生きているのにほとんど死んでいるも同然だった”時期があり、それとつながっている。今でもそうなのかもしれない。自分の本当の死すらまだ確かだから怖くない。かなしくない。
私が解かれるのは、たぶんあるふたつのことで、かたちのない目に見えない一瞬のことで、そのために生きている。その切実さはきっとつくるものにも反映されている。すべてを込みにすると、表象されているものだけを見ても誰も私を羨むことはないと思う。
先日、母の通院に付き添った。数年前の癌の手術後の定期的な検査の結果を聞く。概ね問題はないが新たに気をつけるべき変調があり進んだ場合には手術とのこと。本人も私もふむふむと聞き、その後父の入居中の介護施設へ届け物とお支払へ。しかし受付の閉まった2分後に着いた。
今日はもう受け付けられないが金額ぴったりだったら大丈夫と言ってくれ、二人で鞄の中を覗き込み土の中の宝物を掘り当てるようにしてなんとかぴったり揃えた。
「明日の日付で受け付けます」と取り計らってくれた職員の方に母はさっと名札の名前を読み「ありがとう~も~〇〇さんいい人!」と言った。職員の方ははにかみその場の空気は柔らかくワクワクもするような華やぎ。あ、そうそうこれなのよ、と思った。この人の凄いところは。
その後食事をしながら話していたら、母は全くお医者さんから言われたことを覚えておらず、なるほどこれは毎回付き添わねばと思いつつ、実家へ戻り、兄へ病院で言われたことを伝える。「そうなんだよこの人は」と母と同居の兄は言い、母は気まずそうにし、やはり認知症の検査をしないとと話す。
次の日目が覚めて「いや、母のああいうところは素晴らしいし、そのおかげで人付き合いの下手な私達家族はなんとかやってきた」と思い、すぐさま母へ電話して本人に向かって褒めちぎった。大絶賛した。昨夜兄と二人で母の「できなくなっていること」にやいやい言ったのはとてもよくないと思った。
おそらく認知症の初期である母は反発と萎縮を感じ、もっと認知症は進むのではないか。反対に賛辞と感謝は認知症の進みを遅らせるのではないか。なんの専門家でもない私が、生き物の本質を思った時に感じる。アルコール依存症でもう確実に認知症の父もそうだ。
「介護」という言葉には何か一方的で、「介護」する側の傲慢のようなものが漂う。「子育て」にも似た違和感がある。動物を飼う場面にも見受けられることがある。「一見するとやさしさ」にくるまれた中に「一方的な力関係の誇示」を感じる。
先日の母を見た時、「ああ、この人から学ぶことはまだたくさんあるのだ」と思った。まったくもって「介護」などとは何様なんだ自分や兄は。ただこの世に存在するひとつの生き物どうしとして、親たちと、またその他の存在すべて(人間以外も)と、接していきたいと思った。
「経る」人、と
「得たい」人、が
あるように感じる
傾いた陽に、光る マンホール、アスファルトの粒、シュっと伸びた草、並ぶ車、自動販売機 どんなことにも輝きを見い出すことはできる そうやって生きてきた でもそのちからを、もっと大切にしてもいいのではないか 大切なことに使ってもいいのではないか 人生の残り時間の少なさに、切実にそう思う もう自分を責めなくてもいいのでは、と
今日は長い付き合いの友達が夢に出てきたので連絡したら、
その後たくさん話ができてとても充実した時間だった
ずっと話がしたかったけれど、
あんまり弱ってる時には連絡できないなと思ってたから、
やっとできてよかった
今まさに必要なことだった
テレパシった
テレパシーが通じる人と通じない人がいるのはなんだろう
いちばん鋭かった時はこれから誰に会うかが予知できたりとか、
親しい友達か悲しんでいるのを感知できたりとかしたけれど
あと親しい人の死
突然頭の中で好きな音楽が流れ出して
「あ、今行くとその人に会える!」と思う
支度して出かけると「こっちに行くと会える」
といつもと違う道を選んで進む
そしてふと振り向くと
その人が、居る
そんなことが何回もあった
そんな感覚も鈍くなったある時
同じように敬愛する人と遭遇した、が
その時思ったのは会えたうれしさではなく、
「もう予知できなくなった自分」を悲しむことだった
今はそれすらも懐かしいくらい鈍くなったけど・・
さっき話していた友達が
「あかねちゃんはきれいで、透明になって空に消えてしまいそうと思うことがあったのだけど、心根が大木のように深い。」
「一時、思ってたの。 あかねちゃん、きれい過ぎて消えちゃいそうって。」
と言ってくれたので、ストーカーに襲われたりとか現実的に綺麗な気持ちだけではいられないことが起こり過ぎた、と伝えたら、
「この濁った中を生きるために鈍くならざるを得ないのだろうけど、悲しいし、何でだ!と憤る気持ちになる」
「あかねちゃんが鈍くなったっていうのが悲しいのではなく、そうならざるを得なくしたものに憤るよ」
と言ってくれて何か救われたような思いがした
隣接の工事、マンションが建つのは困るけど、
作業している人は「自分の手を動かさないと何も進まない」
っていうところには仲間感を感じる