数年前に書いた、ある気づき
気づきというか、「ずっと自分の中にあった感覚について言語化できた」とき
「自分が消えたようになる、透明になるってどういうこと」ということ
この次の投稿の『からだの中を通り抜けてゆく』でも書いています
ふと読み返していて、今の自分を解放へと導いてくれる
それはすでに自分の中にあったのだと思い出せました
ありがとう、過去の自分
次の投稿『からだの中を通り抜けてゆく』も続けてお読みください

ai(2009.07.23)

このあいだ
ある音楽のすばらしさを
友人がほんとうにわかってくれたとき

またひとりそれを知ったことが
ほんとうにうれしくて
涙がでた

自分のことをほめられるよりうれしかった

 

何かをつくるとき
自分が消えたようになって
あるまぶしさを感じるときがある

そんな気持ちになった

 

 

わたしはここのところずっと
その、自分が消えたようになるときのことを考えていた

何か大きなちからに動かされているような感覚
その「大きな何か」を誰かにつたえるための、
自分はただの通過物になったような状態

この宇宙のすべてのもの、存在に
感謝のような、敬うような

そのとき感じる
つよいつよい
まぶしさ

 

 

ある音楽のすばらしさがつたわってうれしかったときの
その感覚について なんとなく考えつづけて
一週間ほど経ったとき
フと
最近読みかえしていた本のことを思いだした

主人公がこの世から消えるまぎわに
それまでの数日、しあわせな時を共に過ごした従兄弟の
この先の人生のしあわせを願う

そして主人公は
自分はぜんぜんぬきに相手のことを考えられる
愛するってそういうことなのかも

思う

 

 

そうか、
あの気持ちは
「愛」だったのか

この宇宙に存在するすべてのものへの愛

自分が消えてなくなるような感じ

あれは「愛」なのか

そうか

 

 

 

わたしは「愛」がどういうことなのか実感したことなかったから
いままで「愛」という言葉を使ったことがなかった

ずっとずっと漠然と感じつづけていた
まぶしさが それだった

 

 

漠然と いだいていたものが
言葉につながる

ヘレンケラーの感動ってこんなだったのかな
ひとつの 伝達の方法を知ること

 

 

 

自分がなくなる     透明になる

 

透明
ということは
「愛」ということ なら

どうしてか自分が ひきつけられ、ちからをもらう人々がそなえた、
ひと目ひと耳でわかってしまうあの透明感は
その人の愛情深さ なの

 

その
透きとおった
向こうにみえる景色からは
なにか 恵みのようなものがとどく

つよいところも なさけないところも
うつくしいところも きたないところも
その愛情深さが 人びとの中の愛をよびさます

 

ほんとうはだれだってそんなでいられる、
「そこ」で話そう、と よびかける

そういうたたかいが
あるように
思える

 

木や花や山や川や海や空や光、きれいな夕焼けなんかに
きっと ずっと人間はそういう恵みを受けてきた

いまはそれを忘れてしまった人びとも
人間の中に それをさがしてる

透明とは反対のこころたちに、
山や川や地や空のように
どうか壊さないでと
願うときがある

そんなとき
かれらは
きっと
もう
どんどん
透きとおって
ゆくしかないんだろう
愛しぬく という たたかいかたで

愛情をたたえ存在し流れつづけている
その音楽に わたしは
透明になれる

 

 

 

こんなこと、
ちゃんと生きている人には
あたりまえにわかっていることなのかもしれなくてはずかしい

でも いつも すでにある公式のようなものを使わずに
自分でひとつひとつ解いてきたわたしは
いまごろ気づいた

言葉じゃないところではわかっていたけど
それが言葉とつながる この不思議な感じ

うれしいような
くやしいような

 

 

 

しかしどこかで
そんなかんたんに言葉でかたづけられるようなもんじゃない
気もして

もっと

もっと

つかめないような

 

 

ほんとは言葉にできないことを
言葉にしてしまっていることに
ここまで書いてきて ちょっと
おちこんできた・・・

 

 

これはきっと絵本につながってくんだ・・・ たぶん・・・

2009.7.23

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