『あ あ』は2017年11月に「こどものとも年中向き12月号(福音館書店)」から発売されます
『あ あ』は2004年12月に出版された『あ』の流れにある、
「針金の人」が出てくる絵本です

「針金の人」には名前はありません
便宜上、針金でできた人なのでそう書いていますが
針金の人は「『存在』の象徴」であり、キャラクター性とは対局に在ります
「そこに在ること」「何かに出会い、それゆえの振舞い」それを描くための「なんでもないものの象徴」です
ゆえに顔も無く、最小限な要素で成り立ち、でも「そこに居る」ように感じられる
何者でもない、だから何者にもなれる、そういう存在です

『あ』における針金の人は、さまざまな「物」と出会い関わることで、
それらの「物」が「その物であるがゆえの在り方」を浮かび上がらせていました

わたしはいつも、物とじっと向き合い、その物の発する声をうかがう、ということをします
(それは自分を宙に浮かぶ1点とすると、全方向からうったえかけてくる可能性へと感覚を開く状態)
すると「その物が何者か」という以前の、「その物であるがゆえの在り方」へと焦点が導かれるのです
言葉になる以前の「そのものの物理的な資質」とも言えるかもしれません

そしてその向こうには「その『物』をつくった、必要だった、人間」という生命の
脈々と続いてきた永い“とき”を感じられ、どこか尊い気持ちにもなり、
また、人間がいじらしくも感じられてくるのです

自分にとっては当たり前のその感覚を、このように作に託し、世へと放つのは、
わたしなりの世への“アイロニックな問い”または“わくわくする価値観への旅の誘い”です

わたしの作は常にその要素を湛えて(たたえて)います

今回の新作『あ あ』では
針金の人が2人になったという表層の変化以上に
登場するモチーフの在り方の構造がまったく違うものとなっています

『あ』では針金の人が「物と読者のあいだの媒介者」でしたが
『あ あ』では「物」が「針金の人と針金の人の出会い」の媒介者となっています

ふたりの針金の人の出会いのためへ、さまざまな「物」たちが
「その物であるがゆえの在り方」を差し出しているようにも思えます

「四角が四角であるがゆえの」「丸が丸であるがゆえの」「伸び縮みするがゆえの」
「水が、風が、光が、そうであるがゆえの」
「なんでもないがゆえの」

そんなけなげに存在している物たちにかこまれ、生きている
こんなに豊かな、なんでもない「今」よ
ありがとう

大槻あかね 2017年10月24日

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